東京高等裁判所 平成9年(行ケ)330号 判決 1999年3月02日
大阪府大阪市中央区道修町三丁目1番2号
原告
和光純薬工業株式会社
代表者代表取締役
田中幹晃
訴訟代理人弁理士
俵湛美
東京都千代田区霞が関三丁目4番3号
被告
特許庁長官
伊佐山建志
指定代理人
吉見京子
同
後藤千恵子
同
廣田米男
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第1 原告が求める裁判
「特許庁が平成8年異第70048号事件について平成9年10月24日にした決定を取り消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決
第2 原告の主張
1 特許庁における手続の経緯
原告は、発明の名称を「新規なジアゾジスルホン化合物」とする特許第2500533号発明(以下「本件発明」という。)の特許権者である。なお、本件発明は、平成3年1月30日に特許出願(平成3年特許願第29561号。平成2年1月30日にした平成2年特許願第19614号に基づく優先権を主張)され、平成8年3月13日に特許権設定の登録がされたものである。
本件発明の特許については特許異議の申立てがされたので、特許庁は、これを平成8年異議第70048号事件として審理した結果、平成9年10月24日に「特許第2500533号の特許を取り消す。」との決定をし、同年11月22日にその謄本を原告に送達した。
2 本件発明の特許請求の範囲
別紙決定書の理由写しの1記載のとおり
3 決定の理由
別紙決定書の理由写しの2以下記載のとおり
4 決定の取消事由
決定は、先願明細書記載の技術内容を誤認した結果、本件発明が先願明細書に記載されていると誤って判断したものであって、違法であるから、取り消されるべきである。
(1)決定は、先願明細書には本件発明のジアゾジスルホン化合物に該当する6つの化合物(以下「決定摘示の6化合物」という。)が具体的に有用性を有する化合物として記載されている旨認定している。
しかしながら、本件発明について特許法29条の2の規定を適用するためには、先願明細書に、本件発明の化合物に相当する化合物が化学物質名で記載されているのみでは足りず、発明として成立する程度に、製造方法及び有用性が特定して記載されているか、(実施例との近似性によって)記載されているに等しいと認められなければならない。
しかるに、先願明細書記載の一般式(Ⅰ)は、極めて広範囲の下位概念の化合物を包含するものであり、決定摘示の6化合物は、先願明細書に「最も好ましい」として機械的に羅列されている57の化合物から、本件発明の一般式[1]を基準にして選び出されたものにすぎない(先願明細書には、羅列された57の化合物から決定摘示の6化合物のみを選び出す基準は、示唆すらされていない。)。
そして、先願明細書記載の化合物は、官能基としてビス(スルホニル)ジナゾメタンを採用したことを特徴とするものであるため、先願明細書には、決定摘示の6化合物について、それらの製造方法及びこれら6化合物のみが示す有用性は特に記載されていない。ちなみに、先願明細書において、製造方法あるいは酸発生剤としての有用性が確認されている実施例の化合物のRは、芳香族のアリール基であるのに対して、決定指示の6化合物のRは、脂肪族のアルキル基又はシクロアルキル基であって、その間に近似性はない。この点について、被告は、乙第4ないし第6号証の刊行物を援用するが、これらの刊行物には、Rが分枝状又は環状のバルキーなアルキル基である化合物に関する記載は存在しない。
したがって、先願明細書に、決定摘示の6化合物が、発明として成立する程度に特定して記載されているということは到底できない。
(2)この点について、決定は、まず、決定摘示の6化合物は、Rが炭素数3~8の分枝状又は環状アルキル基の化合物であるから、本件発明の一般式[1]のジアゾスルホン化合物に一致する旨認定している。
しかしながら、本件発明は、R1とR2はいずれも芳香族基でないこと(酸発生剤の光透過性を高めるため)、R1とR2の少なくとも一方は分枝状又は環状のバルキーなアルキル基であること(レジスト材料の溶解阻害効果を高めるため)の2点を特徴とするものである。しかるに、先願明細書には、このような2点の特徴に問題意識を示す記載は全く存在せず、Rが芳香族基である化合物、あるいは、Rがいず乳も直鎖状のナルキル基である化合物が、決定摘示の6化合物と同列に、好ましいものとして羅列されているのであるから、決定が、同摘示の6化合物のみを選び出したことには、技術的な合理性が乏しいというべきである。
また、決定は、同摘示の6化合物が含まれる57の化合物について、「上記の化合物は、220~270nmの領域に吸収極大があるので、高エネルギーUV照射に特に適している。」旨の先願明細書の記載(6頁左上欄7行ないし9行)を援用している(3頁の<3>)。
しかしながらこの記載が妥当するのは、Rが芳香族基である化合物のみであって、Rが脂肪族基である決定摘示の6化合物には妥当しない(甲第5号証の実験報告書参照。なお、先願明細書には、酸発生剤の光透過性が超短波長領域において高いことに基づく作用効果は記載されていない。)。したがって、決定摘示の6化合物については、光照射に感応する酸発生剤としで有用性は確認されていないといわざるをえない。
さらに、決定は、決定摘示の6化合物は「ビス(4-t-ブチルフェニルスルホニル)ジアゾメタン」と類似の方法で製造できる旨の先願明細書の記載(7頁右上欄2行、3行。右下欄11行、12行)を援用している(6頁の<5>)。
しかしながら、先願明細書の上記記載は、何らの裏付けもない不当なものである。この点について、被告は、乙第4、5号証の刊行物を援用するが、前記のように、これらの刊行物には、Rが分枝状又は環状のバルキーなアルキル基である化合物の製造に関する記載はない(Rが分枝状又は環状のバルキーなアルキル基である化合物は、立体障害によって反応が阻害され、製造が困難であることは、甲第9、10号証に記載されているように、周知の事項である。)。
したがって、決定摘示の6化合物については、製造方法の確認もされていないといわざるをえない。
第3 被告の主張
原告の主張1ないし3は認めるが、同4(決定の取消事由)は争う。決定の認定判断は、正当であって、これを取り消すべき理由はない。
1 原告は、化合物に係る発明について特許法29条の2の規定を適用するためには、先願明細書に、化合物が化学物質名で記載されているのみでは足りず、発明として成立する程度に、製造方法及び有用性が特定して記載されているか、記載されているに等しいと認められなければならない旨主張する。
しかしながら、先願明細書に、ある化合物が正確な化学物質名(あるいは、化学構造式)をもって記載されているならば、同明細書記載の発明の特許出願当時の技術水準において、当該化合物は存在しえない、あるいは、当該化合物は製造できないと考えられていたような特別の事情がない限り、当該化合物は発明として成立する程度に特定して記載されていると解するのが当然である。のみならず、当業者ならば、先願明細書の記載によっで、決定摘示の6化合物の製造方法及び有用性を明確に理解できるのであるから、原告の上記主張は失当である。
この点について、原告は、決定摘示の6化合物は先願明細書に機械的に羅列されている57の化合物から選び出されたものにすぎない旨主張する。
しかしながら、先願明細書には、一般式(Ⅰ)に包含される膨大な化合物の中から、「基としてR=アルキルを含む一般式(Ⅰ)の化合物の中で、1~6個の炭素原子を持つ化合物が好ましく」(4頁右下欄2行ないし4行)との限定の下に、57の化合物を例示したことが記載されているのであるから、これをもって「機械的に羅列され」たものという原告の上記主張は失当である。
また、原告は、先願明細書において、製造方法あるいは酸発生剤としての有用性が確認されている実施例の化合物のRは、芳香族のアリール基であるのに対して、決定摘示の6化合物のRは、脂肪族のアルキル基又はシクロアルキル基であって、その間に近似性はない旨主張する。
しかしながら、先願明細書記載の一般式(Ⅰ)は本件発明の特許出願前に周知のものであって、乙第4ないし第6号証の刊行物においても、Rがアルキル基である化合物とRがアリール基である化合物とが全く同列に扱われている(乙第6号証には、Rがバルキーなアルキル基である化合物も記載されている。)。したがって、先願明細書において、Rがアリール基である化合物の製造方法及び有用性が確認されている以上、Rがアルキル基である化合物の製造方法及び有用性も確認されているに等しいと解すべきことは当然である。
2 この点について、原告は、「220~270nmの領域に吸収極大があるので、高エネルギーUV照射に特に適している。」旨の先願明細書の記載が妥当するのは、Rが芳香族基である化合物のみであって、Rが脂肪族基である決定摘示の6化合物には妥当しない旨主張する。
しかしながら、先願明細書には、「本発明の目的は、酸を形成する化合物と、酸により開裂し得る化合物との組み合わせからなる混合物において、光分解的に酸を形成する化合物(a)が公知のすべての基材上でできるだけ安定であり、光反応生成物として腐食作用の無い酸を発生する、照射感応性混合物を提案することである。」(3頁右下欄19行ないし4頁左上欄5行)、「本発明に係わる照射感応性混合物は、広いスペクトル領域にわたって感度が高いのが特徴である。」(4頁右上欄6行、7行)と記載されている。すなわち、先願明細書記載の混合物は、光照射に感応する酸発生剤として有用であることに技術的意義があるのであって、その吸収極大波長の数値に臨界的意義があるのではないから、原告の上記主張は失当である(のみならず、甲第5号証の実験結果によっても、決定摘示の6化合物の吸収極大波長は、上記「220~270nmの領域」と大差がない。)。
また、原告は、決定摘示の6化合物は「ビス(4-t-ブチルフェニルスルホニル)ジアゾメタン」と類似の方法で製造できる旨の先願明細書の記載は何らの裏付けもない旨主張する。
しかしながら、先願明細書に「ビス(4-t-ブチルフェニルスルホニル)ジアゾメタンの製造方法が記載されている以上、当業者ならば、決定摘示の6化合物の製造方法を理解することに何らの困難もないから、原告の上記主張は失当である。ちなみに、乙第4、5号証の刊行物には、先願明細書記載の一般式(Ⅰ)に包含される化合物について、Rがアルキル基であってもアリール基であっても、同様に製造可能であることが開示されている。この点について、原告は、Rが分枝状又は環状のバルキーなアルキル基である化合物は、立体障害によって反応が阻害され製造が困難であることは周知の事項である旨主張するが、上記乙第4、5号証の刊行物は、Rがバルキーな基であるか否かを区別していないから、原告の上記主張は、当業者が決定摘示の6化合物の製造が奇能であると認識することの妨げとはなりえない。
理由
第1 原告の主張1(特許庁における手続の経緯)、2(本件発明の特許請求の範囲)及び3(決定の理由)は、被告も認めるところである。
第2 甲第2号証(特許公報)によれば、本件発明の概要は次のとおりであると認められる。
1 技術的課題(目的)
本件発明は、遠紫外光、電子線、X線等に対する感応材料として有用な化合物に関するものである(1欄13行ないし15行)。
半導体デバイスの高密度集積化に伴って、微細加工に用いられる露光装置の光源は短波長化しているが、特にKrFエキシマレーザ光を光源として用いるレジスト材料は、露光に対して高感度で反応することが必要である(2欄11行ないし3欄2行)。
そのための方法の1つとして、露光によって酸を発生する化合物(酸発生剤)を含有させたレジスト材料が提案されているが、アリルジアゾニウム塩等の酸発生剤は、いずれも芳香環を有するため、これらを含有させたレジスト材料の光透過性が低下するという問題点を抱えている(3欄3行ない18行)。
本件発明の目的は、300nm以下の光(例えば、遠紫外光、KrFエキシマレーザ光、ArFエキシマレーザ光)による露光によって容易に酸を発生し、しかも、レジスト材料中での溶液安定性に優れ、レジスト材料の溶解阻害効果を増長する機能を有するような酸発生剤を創案することである(4欄9行ないし16行)。
2 構成
上記の目的を達成するため、本件発明は、その特許請求の範囲記載の構成を採用したものである(1欄2行ないし10行)。
3 作用効果
本件発明のジアゾジスルホン化合物は、半導体産業等における超微細パターンの形成に多大の価値を有するものである(20欄19行、20行)。
第3 そこで、原告主張の決定取消事由の当否について検討する。
1 原告は、本件発明について特許法29条の2の規定を適用するためには、先願明細書に、本件発明の化合物に相当する化合物が化学物質名で記載されているのみでは足りず、発明として成立する程度に、製造方法及び有用性が特定して記載されているか、記載されているに等しいと認められなければならない旨主張する。
確かに、化合物に係る発明は、新たな化学物質の創案を本質とするものであるから、発明として成立するためには、少なくともその化学物質名(あるいは化学構造式)及びその製造方法が特定される必要があると解される。したがって、本件発明について特許法29条の2の規定を適用するためには、先願明細書に、本件発明の化合物に相当する化合物の化学物質名(あるいは化学構造式)及びその製造方法が記載されていなければならない。
しかしながら、特許法29条の2の規定を適用するためには、先願明細書記載の発明(以下「先願発明」という。)が特許を受ける必要はなく、出願公開されれば足りるのであるから、先願発明について同法29条1項柱書の要件(原告のいう有用性)は必要でないと解すべきである(例えば、先願発明と、後にされた特許出願に係る発明(以下「後願発明」という。)が全く同一の構成のものであるが、先願明細書には先願発明の有用性についての記載が存在しない場合において、先願明細書には発明の記載はないとし、後願発明は、同法29条の2の規定にいう後願発明には当たらないとして特許を受けることができるとするのは、およそ不合理である。)。原告は、決定が先願明細書には決定摘示の6化合物が有用性を有する化合物として記載されている旨認定しているため、先願明細書には決定摘示の6化合物の有用性の記載がない旨主張するものと解されるが、上記説示に照らせば、決定摘示の6化合物の有用性に関する決定の認定の当否は、本件発明が同法29条の2の規定にいう後願発明に当たるとした決定の結論に影響を及ぼすものではない。
なお、後願発明が先願発明の下位概念の関係に立ち、選択発明が成立する場合には、選択発明に係る技術的事項は先願発明細書に記載されていないことになり、また、後願発明が新たな用途の発見に基づくものであって、用途発明が成立する場合には、両者は技術的思想を異にし、後願発明は先願明細書に記載されていないことになると解されるが、本件についての後記認定判断によれば、本件は後願発明が選択発明として成立する場合には当たらず、また、後願発明が用途発明であることについての主張立証はない。
これを本件についてみると、先願明細書に、決定摘示のとおり、一般式(Ⅰ)を満足すう6化合物の具体的な化学物質名が記載されていることは原告も認めるところである。
したがって、本件発明について特許法29条の2の規定を適用することの適否は、先願明細書に、決定摘示の6化合物の製造方法が記載されているか(あるいは、記載されているに等しいと認められるか)否かによることになる。
2 甲第3号証によれば、先願明細書には、
a 「本発明により使用する、(中略)α、α-ビス(アリールスルホニル)ジアゾメタンの調整を、好ましいビス(4-t-ブチルフェニルスルホニル)ジアゾメタンを例にとって説明する。」(7頁左上欄20行ないし右上欄4行)
との記載に続いて、上記化合物の製造方法が詳細に説明されたうえ(7頁上欄5行ないし左下欄17行)、
b 「溶剤の再蒸発により、分解温度153~155℃の固体が得られるが、これは分析により、純粋なビス(4-t-ブチルフェニルスルホニル)ジアゾメタンであることが確認される。この化合物の分析値を以下に示す。(後略)」(7頁左下欄17行ないし右下欄10行)
c 「一般式(Ⅰ)の、他の化合物も類似の方法で調整できる。」(7頁右下欄11行、12行)
と記載されていることが認められる。
これらの記載によれば、先願明細書には、一般式(Ⅰ)を満足するビス(4-t-ブチルフェニルスルホニル)ジァゾメタンについて、詳細な製造方法と、得られたものの同定データが記載されていることが明らかである。
ところで、上記実施例において使用されているRはアリール基であるが、決定摘示の6化合物のRはいずれもアルキル基であるので、先願明細書の上記記載をもって決定摘示の6化合物の製造方法が記載されているに等しいというためには、先願明細書記載の一般式(Ⅰ)を満足する化合物の製造の可否は、Rがアリール基であるかアルキル基であるかによって左右されないことの確認が必要である。
3 そこで、検討すると、
(1)乙第4号証によれば、「Chemische Berichte Jahrg.97」(1964年発行)は、「広い範囲で酸安定性のある脂肪族ジアゾ化合物の合成と赤外線スペクトル」(735頁4行、5行)と題する論考であって、「かくして、化合物であるビス-ベンゾルスルホン-ジアゾメタン(Ⅴ)、ビス-[p-トルオルスルホン]-ジアゾメタン(Ⅵ)、ビス-[2.4-ジメチル-ベンゾルスルホン]-ジアゾメタン(Ⅶ)、ビス-[2.4-ジフロロ-ベンゾルスルホン]-ジアゾメタン(Ⅷ)、ビズ-エタンスルホン-ジアゾメタン(Ⅸ)及びジアゾメチオシ酸-ビス-エチルアリニド(Ⅹ)が合成された。」(735頁本文下から2行ないし736頁3行)と記載されでいることが認められる。
また、乙第5号証によれば、英国特許第1231789号明細書には、本件発明の一般式[Ⅰ]に相当する光分解等が可能なジアゾメタン誘導体を含む光感応性等記録物体(1頁右欄40行ないし51行)が、上記乙第4号証記載の方法によって製造されること(1頁右欄66行ないし69行)が記載されていると認められる。
さらに、乙第6号証によれば、米国特許第3、332、936号明細書には、「これらの新規化合物は、一般式(RSO2)2CN2のハイブリッド共鳴構造(中略)を持つ、ビススルホニルジアゾメタンである。これらの式において、Rはアルキル、アリール(中略)、アルカリル、アラルキル(中略)である。」(1欄16行ないし23行)と記載されていることが認められる。
(2)以上の記載によれば、先願発明の特許出願当時、先願明細書記載の一般式(Ⅰ)によって特定される化合物は、Rがアルキル基であるものも、Rがアリール基であるものも、全く同等に扱われていることが明らかであり、かつ、先願明細書記載の前記ビス(4-t-ブチルフェニルスルホニル)ジアゾメタンの製造方法も、広く知られていた技術であることが知られるのである。
そうすると、先願明細書の前記2の各記載に接した当業者は、Rがアリール基である実施例と同様に、Rがいずれもアルキル基である決定摘示の6化合物の製造が可能であると認識するのが当然というべきである。
この点について、原告は、甲第9、10号証の刊行物を援用して、Rが分枝状又は環状のバルキーなアルキル基である化合物は、立体障害によって反応が阻害され、製造が困難であることは周知の事項である旨主張する。
甲第9、10号証によれば、原告が援用する刊行物は、L.フィーザー、M.フィーザー著「フィーザー有機化学 上」(丸善株式会社昭和32年2月5日発行)及び大饗茂著「有機硫黄化学(反応機構編)」(株式会社化学同人昭和57年9月1日発行)であって、いずれも有機化合物に関する基礎的な文献であるところ、これらの文献における立体障害に関する記述は、決定摘示の6化合物とは化学構造も反応メカニズムも異なる特定の化合物についてされていることが認められる。したがって、甲第9、10号証の刊行物の各記載は、当業者が決定摘示の6化合物は製造可能であると認識することの妨げとなりえないし、そもそも、Rが分枝状又は環状のバルキーなアルキル基である本件発明の化合物が製造可能である以上(本件発明は物の発明であって、その製造方法がクレームされているわけではない。)、原告の上記主張は無意味であるといわざるをえない。
なお、原告は、決定摘示の6化合物を含む57の化合物についての「上記の化合物は、220~270nmの領域に吸収極大があるので、高エネルギーUV照射に特に適している。」との先願明細書の記載(6頁左上欄7行ないし9行)が妥当するのは、Rが芳香族基である化合物のみであって、Rが脂肪族基である決定摘示の6化合物には妥当しない旨主張する。
しかしながら、先願明細書の上記記載が、決定摘示の6化合物を含む57の化合物について、光照射に感応する酸発生剤としての有用性を述べたものであって、得られる化合物の同定のための記述でないことは明らかであるから、原告の上記主張も、決定摘示の6化合物の製造方法が先願明細書に記載されていなびとする論拠とはなりえない。
4 以上のとおりであるから、本件発明の特許は特許法29条の2の規定に違反してされたとする決定の認定判断は、正当であって、決定には原告主張のような誤りはない。
第4 よって、決定の違法を理由にその取消しを求める原告の本訴請求は、失当であるから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法7条、民事訴訟法61条の各規定を適用して、主文のとおり判決する。
(口頭弁論終結日 平成11年2月16日)
(裁判長裁判官 清永利亮 裁判官 春日民雄 裁判官 宍戸充)
理由
1. 本件発明
本件特許第2500533号(平成3年1月30日出願(優先日平成2年1月30日)、平成8年3月13日設定登録)の請求項1に係る発明(以下、本件発明という)は、特許明細書の記載からみて、その特許請求の範囲の請求項1に記載される下記のとおりのものと認める。
記
「下記一般式[1]
<省略>
(式中、R1は炭素数3~8の分枝状又は環状のアルキル基を表わし、R2は炭素数1~8の直鎖状、分枝状又は環状のアルキル基を表わす。)で示されるジアゾジスルホン化合物。」
2. 先願明細書の記載
それに対して、その出願日前の出願であって、その出願後に出願公開された特願平2-238858号の願書に最初に添付した明細書(以下、先願明細書という 異議申立人須田武、千野肇、及び東京応化工業株式会社がそれぞれ証拠として提出した特開平3-103854号公報参照)には、
<1>一般式(Ⅰ)
<省略>
で表されるα、α-ビス(スルホニル)ジアゾメタンで、Rが、アルキル基、シクロアルキル基、アリール基またはヘテロアリール基である化合物が記載されており(特許請求の範囲等)、
<2>さらに、「本発明に係わる混合物では、照射により強酸を形成する化合物(a)は、一般式(Ⅰ)のα、α-ビス(スルホニル)ジアゾメタンであり、ここで、Rは、所望により置換したアルキル、シクロアルキル、アリールまたはヘテロアリール基である。」(公開公報4頁左上欄下から5行~右上欄2行)と記載され、
<3>また、「最も好ましい一般式(Ⅰ)のα、α-ビス(スルホニル)ジアゾメタンの例を以下に示す。
……
ビス(1-メチルプロピルスルホニル)ジアゾメタン
ビス(2-メチルプロピルスルホニル)ジアゾメタン
……
ビス(1-メチルブチルスルホニル)ジアゾメタン
ビス(2-メチルブチルスルホニル)ジアゾメタン
ビス(3-メチルブチルスルホニル)ジアゾメタン
……
ビス(シクロヘキシルスルホニル)ジアゾメタン
……
上記の化合物は、220~270nmの領域に吸収極大があるので、高エネルギーUV照射に特に適している」と一般式(Ⅰ)のα、α-ビス(スルホニル)ジアゾメタンの具体名が列記されるとともに、それらの具体的化合物が高エネルギー照射で酸を発生する化合物であることも記載されている(公開公報4頁右下欄7行~6頁左上欄9行参照)。
<4>さらに、一般式(Ⅰ)のα、α-ビス(スルホニル)ジアゾメタンの有用性に関して「これまで使用されてきた光分解により形成される酸、例えば塩酸と比較して、これらの酸は、その分子量が高いために、本発明に係わる照射感応性混合物における拡散傾向または移動度がはるかに低く、その結果、一方で驚くべきことに最も高度の要件を満たす画像識別性が達成され、他方、なお驚くべきことは、同等の感度において、照射感応性混合物のコントラスト、およびその結果分解能力が更に増加したことである。その上、一般式(Ⅰ)のα、α-ビス(スルホニル)ジアゾメタンは、高エネルギー短波照射によっても活性化され、その結果、例えば、高エネルギーUV2照射(248nm)用の高感度感光性樹脂を製造できることは驚くべきことであった。」(公開公報6頁右下欄下から5行~7頁左上欄9行)、
<5>「本発明により使用する、その内の幾つかは新奇である、α、α-ビス(スルホニル)ジアゾメタンの調製を、好ましいビス(4-t-ブチルフエニルスルホニル)ジアゾメタンを例にとって説明する。……
一般式(Ⅰ)の、他の化合物も類似の方法で調製できる。」(公開公報7頁左上欄下かう1行~右下欄12行)と記載されている。
3. 本件発明と先願発明との対比
上記具体名が記載される6つの化合物は、Rが炭素数3~8の分枝状又は環状アルキル基の化合物であるから、本件発明の一般式[1]のジアゾスルホン化合物に一致する化合物であることは明らかである。
そして、先願明細書には、一般式(Ⅰ)で示されるα、α-ビス(スルホニル)ジアゾメタンの調製がビス(4-t-ブチルフェニルスルホニル)ジアゾメタンを例にとって説明されており、さらに上記の一般式(Ⅰ)の、他の化合物も類似の方法で調製できることが記載されている(上記<5>の記載参照)から、上記の6つの化合物も同様に製造されることが類推され、それを覆す理由もない。
また、先願明細書の上記記載(上記<3><4>の記載参照)から上記6つの化合物が高エネルギーUV照射でのレジスト用酸発生剤としての有用性を有することも明らかである。
以上、先願明細書には、本件発明のジアゾスルホン化合物に該当する6つの化合物が具体的に有用性を有する化合物として記載され、かつ、それらの6つの化合物が、先願の出願時に当業者に製造可能でないといえない以上、先願明細書には本件発明の化合物が記載されているものと認めざるを得ない。
なお、本件特許権者は、当審の取消理由に対する意見書及び上申書中で以下のことを主張する。
<1>先願明細書に作用効果が実施例として具体的に示されている化合物は、Rが両方ともにアリール基である化合物のみである。そして、本件発明のRが分枝状又は環状のアルキル基である化合物は、先願実施例のアリール基を有する化合物に比べて、レジスト材料用酸発生剤として用いて248nm付近の波長の光透過性が著しく高く、その結果、これを使用するレジストの解像性能及びパターン形状において、著しく優れているという予期できない優れた作用効果を示すものである。してみれば、先願明細書の一般式に包含され、該当する化合物名が列記されていることを根拠に、本件発明が先願明細書に記載された発明であるということはできない。
<2>先願発明の化合物は、分子量を大きくすることによって発生する酸の拡散傾向を小さくするものであるのに対して、本件発明の化合物は光透過性が高いことを特徴とするものであり、異なる技術思想に基づく化合物である。したがって、先願明細書には光透過性が高いという観点から選ばれた化合物の記載はないとみるべきであるから、本件発明の化合物は先願明細書に記載された範囲のものではない。
しかしながら、<1>本件発明は新規な化学物質の発明であり、レジスト材料用酸発生剤等の用途発明ではないのであるから、用途に関する予測できない顕著な作用効果があるからといって、先願明細書にその化合物自体が記載されていると認められる以上、化学物質発明としての同一性を免れることはできない。
<2>また、先願発明では、分子量を大きくすることによって発生する酸の拡散傾向を小さくするという技術課題のもとで、Rが分枝状又は環状アルキル基である化合物も実施例のあるRがアリール基である化合物と同様に提供されているものと認められる。してみれば、先願明細書の中で、Rが分枝状又は環状アルキル基である化合物の実施例がないとしてもそれらの化合物自体が記載されていないものであるとすることはできない。
したがって、本件発明の化合物が先願明細書に記載された化合物ではないという特許権者の主張は認められない。
4.むすび
以上のとおり、本件発明は先願明細書に記載された発明と同一であると認められ、しかも、本件発明の発明者が先願の発明者と同一であるとも、また、本件出願のときにその出願人が同一であるとも認められないので、本件発明は特許法29条の2の規定により特許を受けることができないものである。
したがって、本件特許は、特許法29条の2の規定に違反してなされたもめであり、同法113条2号に該当するので、取り消すべきものである。